今日はいわずもがな 1941年12月8日 大東亜戦争(だいとうあせんそう)開戦記念日です。
Needless to say, today is the commemorative day for the outbreak of theGreater East Asia War.
大東亜戦争 すなわちアメリカのいうところの太平洋戦争、イギリスのいうところの極東戦争は今から66年前日本がマレー半島コタバル上陸、真珠湾攻撃を行い始まりました。
The Greater East Asia War is otherwise known as The Pacific War in the USA,or The Far East War in the UK.This broke out for both the bombing Pearl Harbor and the attack on KotaBaru in the northern coast of Malay.
当時、非欧米の国々は日本、タイ、チベット、エチオピアを除いてはみな列強の植民地、準植民地、あるいは属領であり、日清、日露戦争と超大国相手に自国の独立を賭して生き抜いてきた日本が米国という超大国に禁輸処置をされた挙句の自存自衛のための三度目の大博打(だいばくち)戦争でした。
At the time, the non-western nations of Asia and Africa, with the exceptionof Japan, Thailand, Tibet and Ethiopia, were all either colonies, dependent territories or belonged to western nations. In addition to these global circumstances, the United States of America imposed strict trade embargoes on Japan. To maintain itself, its government and its people, Japan faced an inevitable conflict of interests with the western world. Japan was forced into taking their third long shot at war against America, the first being Qing Dynasty China and the second against theUSSR.
日清日露以降の日本の外交努力をすべて否定するハルノートを突きつけられやむなく自存自衛のために開戦にいたったものであり米国の植民地化、属領化を目指して行なった戦争ではありません。
永野修身(ながのおさみ)軍令部総長の開戦前の言葉
「米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことよってのみ死中に活を見出し得るであろう。戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残ればわれらの子孫は再起、三起するであろう。」
戦う前から計算上は勝算がほとんどなく昭和天皇の意向の親英米路線に沿うべく必死に努力した外交努力も万策尽きて戦わざるをえなかった当時の指導者達が苦渋(くじゅう)の決断をしたことは想像に難くありません。 あの戦争を避けるには満鉄(まんてつ:満州鉄道)共同経営としてアメリカの鉄道王ハリマンを迎え入れればよかっただの南印進駐をするべきではなかっただの日独伊三国同盟をするべきでなかっただの議論しだせばきりがありませんが日本側の問題点としてはつまるところ石油を米国に握られているのに対米戦略的に錯誤を重ねそれを正せる意思決定システムが明治憲法上なかったという点であると思います。いずれにしろ通学バスが黒人、白人が一緒になるまで1960年代になるまで待たなければならなかったあの人種差別大国であった米国に戦いを挑んだ当時の日本に敬意を表します。個人的なロマンとしては1881年に当時独立国であったハワイのカラカウア王が日本へ訪れたときいずれ米国の属国になってしまうことを恐れた王が(その予見は残念ながら当たってしまうのですが)日本の天皇家の山階宮定麿王と、王の姪で王位継承者のカイウラニ姫を結婚させて日本ハワイ同盟を作ろうと明治天皇にもちかけたとき、もし明治天皇がお断りせずお受けしていたら世界史は変わっていて満州国は理想郷として栄え大東亜戦争もなかったかもしれないという空想が楽しいです。 以前に真珠湾のアリゾナ記念館に行きました。アリゾナ記念館は戦艦アリゾナが沈んだ海上の上に立っている白い建物です。その近くの陸地に資料館がありました。資料館では当時の写真が展示されていましたがある写真の前で私は立ち止まりました。 その写真は米軍に撃墜(げきつい)されたと思われる日本兵の遺体が海上に浮いているものでした。 日本国内の資料館で米兵の遺体をさらしている写真などみたことがなかった私にとっていくら旧敵国人だったからといって今でもこうやって晒(さら)すのかと怒りに震えました。 当時の真珠湾攻撃はかなり正確に軍事施設のみを狙って攻撃をしていました。 しかし米国は焼夷弾(しょういだん)等を用い日本の民間人の大量虐殺(ぎゃくさつ)および原爆を用いて無辜(むこ)の人々の大量虐殺を行い日本を屈服させました。 そのような非道の限りをつくした米国が戦後極東(きょくとう)軍事裁判で事後法でA級戦犯なるものを捏造するのは茶番劇であり日本人として受け入れることのできないものですがいまだそれが政治の世界では問題になるという現実を鑑(かんが)みれば日本人の中に根深く蔓延(まんえん)してしまった病理の深さは相当なものだと思います。 かつての日清戦争ではロシア、フランス、ドイツの三国干渉にて遼東半島(りょうとうはんとう)を清国に返還させられ、その屈辱は当時の福沢諭吉に「ならぬ堪忍するが堪忍」と言わしめ 三宅雪嶺は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と唱え、日本人はじっと耐え日露戦争を勝利と導きました。 敗戦国日本の空は横田空域なる広大な空域が米軍の管理下に置かれ日本各地にも米軍基地があります。 60年以上も他国の軍隊が駐留しているのも異常な状態です。「ならぬ堪忍するが堪忍」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の気持ちでいつか日本が本当の独立国になることを願っています。 1941年12月8日、欧米列強によるアジア植民地支配の歴史を覆す新たな歴史の一ページを開いた真珠湾攻撃に命をうけ日本の自存自衛のために命を賭して戦ってくれた方々に感謝します。
本日御紹介の患者さんは既往として他院にて鼻プロテーゼ留置術をお受けになられるもその入れ替えを御希望され、また鼻先を細く、小鼻を小さくしたいとの御希望にて他院鼻プロテーゼ留置後入れ替え術、鼻尖縮小術、小鼻縮小術(脇山先生執刀)をお受けになられた患者さんです。
上段:術前です。
下段:術後2カ月再診時です。
御感想は御満足(5/5)と順調な経過です。
またの御来院をお待ちしております。
2010-12-08