今日は1960年に(新)日米安全保障条約が締結された日です。この時締結された日米地位協定はさまざまな問題を内包しており現在にいたるまで改正が叫ばれ続 けていますが未だ改正されていません。
50 years ago from today, on January 19th 1960, the Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan was concluded. At the same time, the Japan Status of Forces Agreement(*) was signed.
 
(* the abbreviated name is "SOFA". Its formal name is "Agreement under Article VI of the Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America, Regarding Facilities and Areas and the Status of United States Armed Forces in Japan")
 
 
この日米地位協定の大きな問題点がいくつかあります。 日本で裁判を受けるべき被疑者であっても、アメリカが先にその身柄を拘束した場合、身柄が引き渡されるのは検察により起訴がなされた後であるため、十分な捜査ができない点や、米軍が日本に施設を返還する際に現状回復義務を負わない点、および米軍の持つ「財産」について、日本の警察が捜索や検証を行う場合、米軍の「同意が必要」とされているため事故機も「財産」とみなされ、米軍はこれを根拠に日米合同の現場検証の拒否を通告できる点などが挙げられます。
There are some major issues which the treaty (SOFA) contains. First, it was impossible for the defendant to have a fair trial when he or she were held in custody by the US authorities. The prosecution in Japanese court could not investigate thoroughly to collect sufficient evidence prior to the trial.
 
Second, there were no obligations for "United States Armed Forces stationed in Japan" to restore to original conditions upon returning the facilities to Japan.
 
Third is the Japanese Police could not investigate and inspect the property or estates of United States Armed Forces stationed in Japan (USFJ) without approvals (permissions) by the US authorities. Therefore, if an accident or a case were caused by the USFJ, the US could reject an investigation request by Japan or decline the submission of material evidence over to Japan.
 
1995年9月に沖縄県で起きた米兵による少女暴行事件における被疑者米兵の身柄引 き渡し拒否や2004年8 月13日に起こった沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場周辺で発生した米軍ヘリ墜落事故にて沖縄県警の現場検証さえの拒否などまさに国家主権が侵害される状況が現実におきてしまっています。
It can be said that this is virtually a violation of national sovereignty for Japan.
In fact, there have been many controversial trials handled by SOFA.
This was especially true in Okinawa where there are U.S. military bases, where some serious cases were reported.
For example, on September 4th 1995, U.S. servicemen, U.S. Navy and U.S. Marines troops from Camp Hansen on Okinawa committed assaults on a girl (1995 Okinawan rape incident). But, in this case, the authorities disclaimed extradition proceedings from Japan.
 
Later, on August 13rd 2004, a helicopter of Marine Corps Air Station Futenma (Futenma air base) crashed into Okinawa International University in Ginowan city. Investigation of the accident scene was not permitted due to US rejection, even though the accident took place in Japanese grounds.
 
 
米軍基地の75%が沖縄に集中し狼藉をはたらく米兵の被害に沖縄の人々は直面 しています。
75% of facilities of USFJ existed in Japan is in Okinawa. Such a circumstance makes a shambles of Okinawa and brings deep menace and insecurity to neighborhood.
 
 
 
 
大東亜戦争終盤の沖縄戦において大田海軍司令官が6月13日に玉砕する前に海軍次官に打った電報はあまりにも有名です。電報の最後の「沖縄縣民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ 」 に大田司令官の全ての思いが込められていると思います。
 
現代語訳を参考までに載せておきます。
「大田司令官の電文
次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう、取り計らいください。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県はすでに通信する力はなく、三十二軍(沖縄守備軍)司令部も又通信する力が無いと認められますので、私は県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過す事 が出来ないので、代って緊急にお知らせします。沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民 に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。
しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子供、女性のみが相次ぐ砲爆撃で家や家財を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、爆撃の下でさまよい、風雨にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや切り込み隊への参加を申し出るものさえもいます。
敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されて しまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。 看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りの無い負傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情
にかられてのこととは思えません。
さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで 勤労奉仕や物資の節約を強いられ、ご奉公するのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることなく、この戦闘の最後を迎えてしまいました。
沖縄の実情は言葉での形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も六月一杯を支えるだけということです。 沖縄の県民はこのように戦いました。
 
県民に対して後世特別のご配慮をしてくださいますように。」
 
この電報を打ち玉砕した大田司令官の無念の思いに応えらるだけの配慮を戦後の 日本は沖縄にしてきたでしょうか?
 
現在の国際情勢の中で核兵器をもち自衛することが現実的選択肢として困難である日本の現状において安保条約を即時廃棄し沖縄から米軍をなくすことは非現実的な選択肢かもしれませんが、そうであればこそせめて日米地位協定が改正されて日本の主権が遵守され日本人が安心して住める国になって欲しいと願います。
 
本日ご紹介の患者さんは「鼻の穴を小さく かつ 自然に」とのご希望にて小鼻縮小術(脇山先生(若先生))をお受けになられました。
 
上段:術前です。
下段:術後約3週再診時です。


ご感想は「まあ満足(4/5)」とのことでありお傷の状態等私が写真でみても順調な経過だと思います。



メールでのご相談に対しお返事させていただきます。

ご相談・お問い合わせ (inquiry) : はじめまして。●●●と申します。私は瞼が開きにくく眼瞼下垂と診断された為、12月に他院にて保険適用で手術を受けました。その際に「二重になるよ?今より美しくなるけど云々」と言われ「美しくなりたい訳ではないし二重にしたくないのですが、奥二重にできますか?」と執刀医に聞きました。以前より視界の為にアイテープで奥二重にしていたので、それならば大丈夫と思っていました。数回確認したのですが、出来るとのお返事でしたので手術を決意致しました。 ですが、術後くっきりとした二重になってしまいました。しかも左右のバランスが遠くから見てもおかしくなにより困っているのは1ヶ月経った今でも眼が開きづらい事です。薄目にしても、目頭の上の皮膚が引っ張られて痛くて辛いです。時間が経てば奥二重になるのかと辛抱していましたが変化はなく、段々毎日がつらく憂鬱になり眼を開くとズキズキと痛いので仕事復帰も出来なくなり家にこもっています。「奥二重にできないかもしれない」と言われれば、手術は決意しなかったのに…と悔やんでも悔やみきれず、家族に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 そんな折、先日知人に教えてもらった院長先生のブログで、他院修正についてのご意見を拝見致しました。読んでいるうちに、(執刀して下さった先生に再手術はお願いしたくありませんが)その医師を恨むような気持ちが、嘘のようになくなりました。そしてこれは自分の無知と愚かさが招いた結果なんだと恥じ、受け入れる事が出来るようにもなりました。今は引きこもっていないで、なんとか良くする為にお金を貯めて、院長先生に手術をしていただきたいと前向きな気持ちになっています。 そこでお伺いしたい事がございます。他院の再手術は原則6ヶ月後との事ですがカウンセリングだけでも受けさせていただく事は可能ですか?先生はとてもお忙しくていらっしゃるので、手術をしていただけるようになるまでとても時間がかかると思っています。でもその待つ間を前向きに頑張って行くために、手術が可能なのか不可能なのかを早めに知りたいのです。 お忙しいところ長くなり申し訳ございません。読んで頂き有難うございました。宜しくお願い致します。
このホームページを何で知りましたか? (How did you get to know this HP ?) : 知人に教えてもらいました。



御返信)
眼瞼下垂の手術は術後2ヶ月ぐらい腫れたりすることもあるので様子をまずはみたほうがよいでしょう。
そして御不安な点や御不満な点はしっかりと担当医に伝えたほうがよいと思います。 患者さんが満足しているか否かはっきり意思表示をしてくださらないと医師は同じ過ちを他の患者さんにしてしまうかもしれません。 時期的にはまだこれから症状が改善する可能性はあるとは思います。
執刀した医師がどこをどのように内部処理したか一番熟知しているのでできれば修正手術は執刀医がよいと思います。

他院修正は私は原則として術後半年以降でなければお引き受けいたしませんがご相談のカウンセリングでしたらその前にして差し上げることは可能だと思います。 ご希望でしたらご連絡ください。
ただし現在のところ美容外科後遺症外来、セカンドオピニオン外来枠というものを整備していないため通常のご予約と一緒になりますので混雑のためご希望の日時に診て差し上げることができない場合はご容赦ください。

他にも何かご質問等ございましたら事務的な事項に関しましてはクリニックにお電話を、医学的なことに関しましてはカウンセリング時にお尋ねくだされば幸いです

2010-01-19

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